1年程前から急に体調が悪くなり、今年の2月には手術をしました。手術の前までは吐いて吐いて、本当に大変な時期を半年も過ごしました。手術をしたら楽になるとは分かっていても、本人にとっては辛い事に変わりはなく、術後の辛さを考えるとそれもかわいそうで、なるべく投薬で頑張ろうと思っていました。しかし、あまりにも毎日が辛そうだったので、この状態で死なせるわけにはいかない、と、こちらも決死の覚悟で手術を申し出ました。その頃、ちょうどお金が究極的になかったので、母に借金をしました。手術費用は20万円でした。
さすけの具合が悪くなった頃から、アートマネージメントの仕事がだんだん忙しくなり、海外出張の際は一緒に暮らしている母に面倒を見てもらわなければならず、母にも随分気苦労をかけたことと思います。
手術をしてからのさすけは、術後のリカバリーでこれまた辛そうな日々を送っていましたが、いつもの元気を取り戻したのがやっと4月に入ってから。ようやく太陽の日差しが暖かく感じられる頃でした。
それからのさすけは元気いっぱいで、ご飯の選り好みが激しくなり、気に入ったものを一気に食べ過ぎてたまに吐いたくらいです。でも、おかげで激減していた体重が少しづつ元に戻り、この暑い夏も一緒に乗り切り、元気いっぱいで秋を迎えました。
9月末〜10月頭までの香港出張を終え、帰宅した頃には日本もすっかり涼しくなり、今年の冬を乗り切るためのさすけのあたたかいベッドをどれにしようか迷っていた矢先でした。
10月18日(月)、3ヶ月ぶりの大学病院での検査のため午前中からでかけ、夕方には少し疲れた様子ではあったけれど、検査を終え、特に異常も認められなかったので、私も納得して元気に一緒に戻って来ました。病院でケージにおもらしをしてみまったようで、私は外でケージを洗って、干したりしていました。さすけはご飯を食べ、私も早めの夕飯を食べ、さすけと一緒にゴロゴロとリラックスしていました。母が8時頃帰宅してからはしばらく姿が見えなかったので、2階に行ったのかな、とあまり気にもせず仕事部屋で仕事をしていました。
11時頃、仕事が一段落し、少しお酒でも飲もうかな、と思って1杯飲み、2杯目を作って仕事部屋に戻った時、2階からトントントンとさすけが降りて来ました。
あ、起きて来たな、またご飯食べるのかな。
あ、これ飲み終わったらお水も変えてあげなきゃ、と思っていると、いつもと違う声でさすけが一声鳴きました。
「ニャン」
鳴き方がいつもと違うので何かあったのかと思い、急いで台所を覗き込むと、さすけが倒れていました。
私はパニックになり、さすけと入れ違いで2階に上がった母を大声で呼びました。
「お母さん!お母さん!さすけが!」
母は急いで降りて来て、さすけの顔に自分の顔を近づけて、「苦しいの」と声をかけてくれました。
私は、急いで救急病院に電話をし、住所を確認して、母にさすけを抱えてもらって私が車を運転して病院に向かいました。
「少し手に力が入ってきた感じだから、もう大丈夫だと思うわよ。」
母がそう伝えてくれたので、私は少し安心し、車のスピードを少し緩めました。
病院が見えて来て、車を止めると母を先に行かせ、私は車のエンジンを切ってから、母の後に続きました。そうすると、先生がすぐに迎え入れ、さすけを手に取り「既に心配停止状態です。蘇生しますか?」と言われたので、私は「お願いします!」と即答し、心臓マッサージをしてもらいました。何回か蘇生をするための薬を注射してもらい、電気と手で心臓マッサージを試みました。その間、私は「さすけ!戻って来て!」と何度も叫びました。しかし、ふとさすけの顔をみたら、目がカッと開き、瞳孔が開いているのがわかりました。
「先生、もう目が、、、」
先生は、「そうですね。もう瞳孔が開いていますので。」とおっしゃい、私は心臓マッサージを止めてもらう決心をしました。
「先生、もう結構です。」
この言葉の意味は、さすけの死を意味します。
状況が全く受け入れられず、さっきまで元気に過ごしていたさすけが急に死んでしまうなんて、信じられないし、全く受け入れられません。まださすけは暖かく、眠っているようにしか見えませんでしたから。
先生に言って少しお時間をいただき、母と一緒にさすけにお別れを言いました。
「さすけ、ありがとう。ごめんね、最後に苦しい思いをさせてしまって。」
そして、先生は遺体を少しキレイにて箱に入れますので、といって私たちは待合室で少し待ち、箱に入ったさすけを返してくれました。箱にはいったさすけは、気持ちよさそうに眠っているようでした。その時もまだ暖かく、お鼻も濡れているように感じました。まだ、生命力の余韻を感じました。
帰宅し、ちょうど母は次の日仕事がなかったので、さすけの好きだった缶詰を出して、トイレを片付けてキレイにしてから、母と二人でさすけのお通夜をしました。さすけの定位置でいつもの寝床のソファにさすけの入った箱を置き、さすけに触りながら2人で焼酎を飲みました。そして、さすけについて、気が済むまで語りました。さすけはまだ暖かく、本当にほんとうに、眠ってるようでした。
ニューヨーク生まれのさすけは、私の帰国と同時に一緒に連れて帰ってきました。ちょうど15年前は、日本の猫に対する検疫が始まったところで、1ヶ月も空港の検疫所で暮らさなければならなかったさすけは、本当に大変な思いをして日本にやってきました。でも、連れて帰ってきて本当によかったのは、亡くなった父も、母も、妹にも全員にかわいがられ、日本に来てからの10年間は、本当に幸せに暮らしていたと思います。
最期は、私に看取られ、母に抱かれて息を引き取る事ができ、寂しい死に方をさせないで本当によかったと、2日たった今、心の底からそう思います。
次の日朝一で火葬場に行き、さすけにお礼を言って、最期のお別れをしました。箱から出したさすけは、もう、固くなっていました。ああ、これで本当に死んでしまったんだな、と思いました。そして、さすけとの美しい日々を思い浮かべながら、さすけの顔に最期のキスをして見送りました。
さすけ、今まで本当にありがとう。
さすけのおかげで、私は一生懸命生き物を育てる事を知りました。さすけに学ばせてもらった事がどんなに素晴らしいことか。今後、日を重ねる毎に感謝の気持ちが膨らみ、もっともっと愛情を感じることでしょう。さすけと一緒に過ごした15年は、私にとって宝物です。人間が一番成長する時期にさすけと共に暮らせた事は、何にも変えられない大切なものです。
さすけ、美しい日々をありがとう。
最期に放った「ニャン」という一声は、きっとさすけの私へのお礼だったのかもしれません。そう信じています。
また、きっといつかどこかで会おうね、さすけ。
2 件のコメント:
ゆかちゃん
さすけ君は、とってもキレイな黒色の猫ですね。ゆかちゃんと、ゆかちゃんのママが彼にお別れを言っている場面を想像してしまい、すごく悲しくなりました。
私も毎日を一生懸命生きよう、と思わせてくれた文章でした。
ありがとう。
さいとうゆうこ
さい、ありがとう。もう、ショック状態からは抜け出したけど、寂しさはぬぐい去れないね。でも、コメントありがとう。
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