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2010年12月12日日曜日

台湾でのハートウォーミング


11月中旬に台湾に行って来ました。もちろん出張です。
今回の出張は、単純に営業目的のためだったので、経費を押さえる為に安宿を決めたんですが、これが本当に情けなくなるくらいの安宿で、窓からのすきま風に悩まされ、机においたなめかけのキャンディーに虫が湧いていたのには、本当にぞっとしました。唯一救われたのが、ベッドのシーツと布団が清潔だったことくらいです。

台湾の営業活動は、予想通り、、、というか、さんざんな結果となり、本当に身も心もぼろぼろになっていました。これは出張最終日に、台北でも有名なギャラリーから得た情報なのですが、日本アートが何故受け入れられないかと、とっとつと説明があり、彼が体験した事や言っていることは彼にとっても真実だし、それ故の結果かとも思い、一方で納得し、一方では納得できない鬱々とした気持ちをずっと抱えていました。一方、仕事とはうらはらに台湾にはいい友達の縁があり、台北をベースにしていたのですが、台中の、それこそ台湾で一番いいギャラリーの一つ「Da Xiang Art Space」のオープニングに招待され、台中まで足を運びました。新幹線で約1時間、重苦しくていやな雰囲気に包まれた台北から、気候が温暖で開放的な台中へと移ったおかげで、鬱々としていた気分が一気に晴れ、持って行った冬物のコートを投げ捨てたい気分にかられました。

Da XiangのオーナのChungさんは、トロントに移住した中国人フォトグラファーの段岳衡さんの個展を開催し、ギャラリーだけの展示に留まらず、Volkswagenの台中での2店舗でも展覧会も開催し、本当に精力的にこの才能溢れるアーティストを支援していました。Chungさんは言ってました「このアーティストが台中に浸透するまでまだまだ時間がかかると思います。でも、辛抱する事もアーティストを広めて行く行為には重要なことなのよ。」




このアーティストには、30代の娘さんが同行していました。彼女は、ご両親が住むトロントとは別に、自身の勉強のために北京に滞在し、ギャラリーで彼女自身のキャリアを育んでいるそうです。ギャラリーには内緒で父の為に台中に同行し、一生懸命お父さんの功績を写真に収めていました。この台中で最も優れたギャラリーでお父さんの個展を実現したのは、彼女自身がDa Xiangに働きかけ実現したと言います。本当に献身的にお父さんの裏方をしている彼女を見ていると、私も5年前に亡くなった父の事を思い出し、何故だか涙が止まりませんでした。




私は彼女とはうらはらに、生前父の事が嫌いでした。小さい頃、洋服のブランドのオーナーをしていた父は、横浜の家に週何回しか帰宅せず、会えばお小言ばかりだったので、あまり父を慕っていませんでした。結局、突然言い渡された大腸がんの発見が遅く、一旦手術をしたものの、余命宣告のあったちょうど6ヶ月の終わりに息を引き取りました。亡くなってからしばらくして、私は本当に父の事を愛していた事に気づき、気づけば、父が生前思いをはせていたアートの仕事に私自身が従事し、また、アパレル方面の仕事もさせていただき、父には息子がいなかったので、私が全て父のしたかったことを受け継いでいるのか、などと考えると、もっと生前協力し合えたのではないか、という思いがあり、このアーティストの父娘に自分の姿を重ねて想いが膨らんでしまったのかと思います。

ギャラリーの人やこの父娘は、私が突然泣き出すものだからびっくりしていましたが、一緒に泣いてくれました。それこそ、抱き合って。ちょっと恥ずかしいですが、みんな家族の愛だったり感動だったりは、あまり表に出せないのが、きっかけがあるとその想いって簡単に表面化するものなんだと、別の視点から改めて思いました。

台湾の市場は、今、日本のアートにあまりいい感情を持っていない事は事実のようです。それは、質とかそういう問題ではなく、過去3年間程に日本のアート関連事業が台湾市場に向けて行ってきた事への失望がもたらした結果なんだろうと思います。しかし、私は私独自で誠意を持ってやっていけば、時が経ち、きっと道は開けると信じています。現に、少なからずではありますが、今回の出張で道は開かれつつあると確信する部分があったからです。現地に足を運び、独自の感性でリサーチしないと分からない部分が色々あるんだな、という事を今回の旅で思い知らされたし、きちんと別にご褒美ももらって帰って来れたのは、今の私には充分過ぎるくらいの収穫でした。






GUGIZM @ SOURCE in 上海



穴薪ペインティングの個展「GUGIZM」のアテンドで上海に行って来ました。





穴薪ペインティングは、実は、別名でコンテンポラリーアーティスト「比巴」として、香港、シンガポール、上海で既に活躍しているんですが、比巴としての契約ギャラリーであるArt + Shanghaiのスタッフが総出でお祝いに駆けつけてくれました。




SOUCEのスタッフも皆いい人達で、世界各国のスケーターシーンを愛する人達でお店が運営されていました。ドイツ人、アメリカ人、マカオ人、上海人と、とっても国際的でした。しかも、みんな、中国語が上手かったです。すごすぎます。




実を言うと、上海に来てから10月くらいからずっと引いている風邪をこじらせてしまったようで、なんと、オープニング終わりの22時まで会場にいられないほど疲労困憊し、途中で帰宅するという大失態をおかしてしまいました。本当に、二度とこんな事がないように、しばらく日本で体力を回復させ、免疫力を上げる生活を心がけようと、真剣に思っているところです。ただ、SOUCEのスタッフやアーティストの穴薪さんらは、みないい人達で、私の事をとても心配してくださり、人の温かさにも触れる事ができました。でも、だめなのもはだめです。はい。

でも少しだけ言い訳をするならば、成田から上海に入る時、濃霧で上海に着陸できず、韓国のジェジュ島に引き返し、給油する為に三時間飛行機の中で待機し、大阪に引き返す事態が起こったのです。デルタだったのですが、何故引き返す事になったのかは未だに不明。大阪に着いて、用意されたホテルにチェックインしたのが朝の5時半。2時間程度の旅の予定が、12時間の長旅になってしまったのも風邪をこじらせた原因かと、今では思っています。

風邪をこじらせたおかげで、本当に本当に辛い日々が続きました。せっかく上海の友達が私の歓迎をしようとしてくれていたにもかかわらず、殆ど何処にも行けずにひたすら仕事と泊まらせてもらっていた友達のアパートの往復。しかも、北京にも行かなければならず、北京に行く朝、このまま倒れたらどうしようと真剣に行くのを迷うくらい具合が悪化し、初めて手を合わせてお祈りをしました。そうしたら、「歩けないか?」「立てないのか?」という声が聞こえたような気がして、そうすると、どこからか少しだけエネルギーが注ぎ込まれたような気がし、立てて、歩けるようになりました。空港に行く1時間前の出来事でした。そして、北京に空港に着く頃にはすっかり具合が良くなっていたんです。なんともキセキみたいなお話でしょ?

今回の出張は、仕事面においては体の具合に反比例するかのようなすばらしい出会いに恵まれ、全アーティストの来年の展覧会スケジュールをこぎつけてきました。普通、1〜2名洩れるのですが、今回に限っては全員です。しかも、お休みしているアーティストにまでオファーが入り、こちらとしては嬉しい悲鳴です。

なんとか来年のスケジュールの段取りもできたので、後は、無事に年越しができるよう体力を回復せねば。

あ、そうそう。来年には「GUGIZM」が北京のSOUCEにも巡回する予定ですので、日程分かり次第また告知します。

とり急ぎ、上海レポートでした。

GUGIZM


2010年10月20日水曜日

美しい日々

15年共に暮らした猫のさすけがおととい死んでしまいました。

1年程前から急に体調が悪くなり、今年の2月には手術をしました。手術の前までは吐いて吐いて、本当に大変な時期を半年も過ごしました。手術をしたら楽になるとは分かっていても、本人にとっては辛い事に変わりはなく、術後の辛さを考えるとそれもかわいそうで、なるべく投薬で頑張ろうと思っていました。しかし、あまりにも毎日が辛そうだったので、この状態で死なせるわけにはいかない、と、こちらも決死の覚悟で手術を申し出ました。その頃、ちょうどお金が究極的になかったので、母に借金をしました。手術費用は20万円でした。

さすけの具合が悪くなった頃から、アートマネージメントの仕事がだんだん忙しくなり、海外出張の際は一緒に暮らしている母に面倒を見てもらわなければならず、母にも随分気苦労をかけたことと思います。

手術をしてからのさすけは、術後のリカバリーでこれまた辛そうな日々を送っていましたが、いつもの元気を取り戻したのがやっと4月に入ってから。ようやく太陽の日差しが暖かく感じられる頃でした。

それからのさすけは元気いっぱいで、ご飯の選り好みが激しくなり、気に入ったものを一気に食べ過ぎてたまに吐いたくらいです。でも、おかげで激減していた体重が少しづつ元に戻り、この暑い夏も一緒に乗り切り、元気いっぱいで秋を迎えました。

9月末〜10月頭までの香港出張を終え、帰宅した頃には日本もすっかり涼しくなり、今年の冬を乗り切るためのさすけのあたたかいベッドをどれにしようか迷っていた矢先でした。

10月18日(月)、3ヶ月ぶりの大学病院での検査のため午前中からでかけ、夕方には少し疲れた様子ではあったけれど、検査を終え、特に異常も認められなかったので、私も納得して元気に一緒に戻って来ました。病院でケージにおもらしをしてみまったようで、私は外でケージを洗って、干したりしていました。さすけはご飯を食べ、私も早めの夕飯を食べ、さすけと一緒にゴロゴロとリラックスしていました。母が8時頃帰宅してからはしばらく姿が見えなかったので、2階に行ったのかな、とあまり気にもせず仕事部屋で仕事をしていました。

11時頃、仕事が一段落し、少しお酒でも飲もうかな、と思って1杯飲み、2杯目を作って仕事部屋に戻った時、2階からトントントンとさすけが降りて来ました。

あ、起きて来たな、またご飯食べるのかな。
あ、これ飲み終わったらお水も変えてあげなきゃ、と思っていると、いつもと違う声でさすけが一声鳴きました。

「ニャン」

鳴き方がいつもと違うので何かあったのかと思い、急いで台所を覗き込むと、さすけが倒れていました。

私はパニックになり、さすけと入れ違いで2階に上がった母を大声で呼びました。

「お母さん!お母さん!さすけが!」

母は急いで降りて来て、さすけの顔に自分の顔を近づけて、「苦しいの」と声をかけてくれました。

私は、急いで救急病院に電話をし、住所を確認して、母にさすけを抱えてもらって私が車を運転して病院に向かいました。

「少し手に力が入ってきた感じだから、もう大丈夫だと思うわよ。」

母がそう伝えてくれたので、私は少し安心し、車のスピードを少し緩めました。

病院が見えて来て、車を止めると母を先に行かせ、私は車のエンジンを切ってから、母の後に続きました。そうすると、先生がすぐに迎え入れ、さすけを手に取り「既に心配停止状態です。蘇生しますか?」と言われたので、私は「お願いします!」と即答し、心臓マッサージをしてもらいました。何回か蘇生をするための薬を注射してもらい、電気と手で心臓マッサージを試みました。その間、私は「さすけ!戻って来て!」と何度も叫びました。しかし、ふとさすけの顔をみたら、目がカッと開き、瞳孔が開いているのがわかりました。

「先生、もう目が、、、」

先生は、「そうですね。もう瞳孔が開いていますので。」とおっしゃい、私は心臓マッサージを止めてもらう決心をしました。

「先生、もう結構です。」

この言葉の意味は、さすけの死を意味します。

状況が全く受け入れられず、さっきまで元気に過ごしていたさすけが急に死んでしまうなんて、信じられないし、全く受け入れられません。まださすけは暖かく、眠っているようにしか見えませんでしたから。

先生に言って少しお時間をいただき、母と一緒にさすけにお別れを言いました。

「さすけ、ありがとう。ごめんね、最後に苦しい思いをさせてしまって。」

そして、先生は遺体を少しキレイにて箱に入れますので、といって私たちは待合室で少し待ち、箱に入ったさすけを返してくれました。箱にはいったさすけは、気持ちよさそうに眠っているようでした。その時もまだ暖かく、お鼻も濡れているように感じました。まだ、生命力の余韻を感じました。

帰宅し、ちょうど母は次の日仕事がなかったので、さすけの好きだった缶詰を出して、トイレを片付けてキレイにしてから、母と二人でさすけのお通夜をしました。さすけの定位置でいつもの寝床のソファにさすけの入った箱を置き、さすけに触りながら2人で焼酎を飲みました。そして、さすけについて、気が済むまで語りました。さすけはまだ暖かく、本当にほんとうに、眠ってるようでした。

ニューヨーク生まれのさすけは、私の帰国と同時に一緒に連れて帰ってきました。ちょうど15年前は、日本の猫に対する検疫が始まったところで、1ヶ月も空港の検疫所で暮らさなければならなかったさすけは、本当に大変な思いをして日本にやってきました。でも、連れて帰ってきて本当によかったのは、亡くなった父も、母も、妹にも全員にかわいがられ、日本に来てからの10年間は、本当に幸せに暮らしていたと思います。

最期は、私に看取られ、母に抱かれて息を引き取る事ができ、寂しい死に方をさせないで本当によかったと、2日たった今、心の底からそう思います。

次の日朝一で火葬場に行き、さすけにお礼を言って、最期のお別れをしました。箱から出したさすけは、もう、固くなっていました。ああ、これで本当に死んでしまったんだな、と思いました。そして、さすけとの美しい日々を思い浮かべながら、さすけの顔に最期のキスをして見送りました。

さすけ、今まで本当にありがとう。

さすけのおかげで、私は一生懸命生き物を育てる事を知りました。さすけに学ばせてもらった事がどんなに素晴らしいことか。今後、日を重ねる毎に感謝の気持ちが膨らみ、もっともっと愛情を感じることでしょう。さすけと一緒に過ごした15年は、私にとって宝物です。人間が一番成長する時期にさすけと共に暮らせた事は、何にも変えられない大切なものです。

さすけ、美しい日々をありがとう。

最期に放った「ニャン」という一声は、きっとさすけの私へのお礼だったのかもしれません。そう信じています。

また、きっといつかどこかで会おうね、さすけ。








2010年9月20日月曜日

心、動かされる

私の小中高に「大野」という同級生がいました。

大野には世界的に有名な舞踏家のおじいちゃんがいて、キリスト教の学校に通っていた私たちのクリスマス礼拝に毎年だったかな?クリスマスにちなんだパフォーマンスを披露してくださっていました。

その踊りは、まだ小さい私たちには深すぎて理解できない部分が多々あったとはいえ、独特で一回見たら忘れられない程のインパクトがありました。


昨日、六本木で開催されているフォトアートの見本市「東京フォト2010」を見て回っていると、突然「大野のおじいちゃん」が目に飛び込んできました。Zen Foto Galleryという渋谷にあるギャラリーのブースで、舞踏家をテーマに写真を展示していたんですが、その作品の中の何枚かに大野のおじいちゃんが写っていました。

「大野一雄」というんだ、とこの時初めて知りました。この20年で、私はすっかりアートに関わりのある人間になっていた為、昔イメージしていた大野のおじいちゃんとは違う視点で「大野一雄」氏が被写体となった写真作品を見進めていくと、ブースの奥のほうに鼻にチューブを付けて口を開いて表情を作っている老人の顔だけの写真が突然表れました。

きっとこの方も大野氏だろうと思い、クレジットを確認すると2010年の作品、という事になっていました。私が小さい頃、既にお年を召していらっしゃったけど、この顔だけの写真から察するに、想像を遥かに超えたお年になっている事に間違いはなく、一つは、顔の回りは真っ暗で、顔だけが浮かび上がった写真、もう一つは、ベッドの上を花で飾られた、これも顔と花だけの写真。儚げなこの2つの作品に付けられた題名は「last dance」。

私がじっと見入っていると、ギャラリーの方がこの作品を撮影された写真家である池内功和さんを紹介してくださり、撮影の時の様子を教えてくださいました。

池内さんが大野氏を最期に訪れた時、すでに眼球と顔の表情筋の一部しか動かす事ができなかったそうです。しかも、撮影する目的で訪れたわけではなかったらしいのですが、撮られるのが何より好きだった大野氏は、カメラの前で、その不自由な体に臆する事なく顔だけでパフォーマンスに挑んだと言います。

池内さんは言いました。「大野さんは、義務とかそういうレベルではなく、本当に踊りが好きで最期の踊りをしてくださいました。」最期までああして好きな舞踏を続けて来れた事は、はたから見ていても幸せな人生を過ごされたんじゃないかと思います、と池内さんはおっしゃっていました。

ベッドの上でのラストダンスにシャッターを向けるチャンスがあった事を、写真家として嬉しく思う、と池内さんは静かに私に言いました。


東京フォト2010

昨日、六本木で開催されているアートフォトフェア「東京フォト2010」に行って来ました。

去年は、ヒルズの真向かいにある新しいイベントスペースでやっていて、建物の1階と地下の2階構造をうまく利用して、なかなか見応えのある展示になっていました。今回は、ヒルズ内の森ビルの40階、ということでビルのワンフロアーがそのフェア会場になっていましたが、去年とは比べ物にならないくらい貧相になっていました。出品作品はどれも素晴らしかったのに、会場が会場なだけに、どことなく文化祭ののりっぽく見えてしまったのは、私だけでしょうか。

それぞれのブースは狭く、壁いっぱいにフォトアートが展示されていました。しかも、それぞれのブースでも個性が出しにくいようで、本当にどのブースも同じ様に見えてしまいました。

ああいう無個性な会場を借りるのであれば、努力して会場を個性的にしないと、せっかくの3連休にわざわざ六本木まで行き、1,500円出して入場した事にちょっと納得のいかなさを覚えてしまう人もいるのではないでしょうか。

と、ちょっと辛口な意見がいいたくなるのも、それぞれの作品自体は素晴らしく、ここにこの作品があるのがもったいない、という感じを受けたからです。個々のギャラリーの展覧会ではなく、あくまで「見本市」なわけなので、「作品だけを見る」という目的があればいいのかもしれませんが、、、私は少なくとも「来年もまた是非、今度は友達も誘って行きたい」という気持ちには少なくともならなかった、ということです。

開催側も色々と大変なんだろうとは思いますが、せっかく開催するんであれば、しかも去年はとてもよかったのに、、、少しもったいない気がしました。会場の問題なのでしょうかね。それだけではないと思いますが、でも場所の問題も多分にあると思います。

フェア自体の感想とはうらはらに、泣き出すくらい感動した作品に出会えたので、私的には大満足でした。貯金があったら間違いなく買っていました。

その作品については、次のブログで紹介します。

東京フォト2010、今日(9月21日)で終了です。


2010年4月18日日曜日

1ヶ月に2本

やっぱり相当きつい。

一ヶ月に2つの展覧会をこなすのは、圧倒的にマンパワーが足りない。

特に、PRと集客が大変。

コンセプトなんかは前もって考えてるし、そんなにバタバタしないで済むんだけど、情報発信がやっぱり大変。

今回は、グラフィックデザイナーの穴薪ペインティングの展覧会という事もあって、Tシャツとバッグを販売してもらっているお店との絡みもあり、もっとPRがんばりたかったのに、気がついたらあと2週間。

もう、あとは、香港側にがんばってもらうしかないかな。

だって、すぐシンガポールの展覧会もあるし、そっちの作品がまだ全然揃ってないから、なんか、気持ちばっかりが焦る。

アーティストも制作日数ぎりぎりで相当大変なんだと思うけど、こっちも大変だ。

でも、「忙しい」とは決して口にしない事にした。

「忙しい」とは、人を亡くすこと、とは母の今日の名言。

心にしみました。


2010年1月29日金曜日

香港展覧会準備中

3月5日〜3月25日まで開催される、ARIの2人のアーティスト、谷口さんと吉光くんによる展覧会「呼吸」がいよいよ開催間近になってきました。

成り行きとは言え、私にとってキュレーターとしての肩書きでの初の仕事となります。今回の動きは、薄々はキュレーターっぽいな〜とは思っていましたが、ギャラリーのプレスリリースをチェックしていた時に、堂々とキュレーターとして紹介されていたので、ちょっとドキドキしました。

こんな感じの流れでした。

5月 Art Beatusへアーティストのプレゼン
7月 アーティストを連れてディレクターとオーナーに紹介~展覧会決定
8月 契約内容の確認
8月~10月でコンセプトを詰めて、英訳してギャラリーに提出
11月 香港へ行き、スペースと搬入経路の確認。作品点数や搬入方法、時期も確認。
12月 ギャラリーが展覧会プレスリリースを開始
1月 ARIとしても展覧会情報を配信
2月 作品シッピング
3月 展覧会

ざっとこんな感じでした。

8月以来、この展覧会開催に向けてアーティストとプロジェクトを組んで、毎週火曜日の夜に集まり、コンセプトを話し合ったり、作品のチェックをしたり、谷口さんの夕飯をご馳走になったり、ワイン飲んだりしながらみんなで作り上げました。だから、私だけがキュレーターなのではなく、みんなで作り上げていった感じです。

今回は、殆ど新作なので、制作ペース等を考えると、これでも結構ぎりぎりのスケジュールでした。1回やってみないとわからないものですね。まだまだ先だ〜って思ってたんですが。気がつけば、来月すぐにシッピンングの見積もり査定の日が来てしまいます。谷口さんも吉光くんも今まさに追い込み中。がんばってください。

、、、でももっと短いスパンでこなす展覧会がシンガポールで5月に開催予定。まだステートメントも書いてない、、、がんばります。


2009年12月28日月曜日

上海でのバッドラック


12月7日〜14日まで上海に行ってきました。

今回は、人民晩報という上海の夕刊新聞の美術部編集長兼アーティストの黄先生の展覧会オープニングに行く為に企画した出張でした。

12月12日に行われたオープニングパーティーは、西洋人のアート関係者が多い上海の中、99.9%中国人参加という、私個人だったら絶対に参加する事ができない貴重な体験をしました。黄先生は新聞社の編集長なのでメディアも多くかけつけ、なにより、大きい会場が人で埋め尽くされていました。

作風は油絵の風景が多いのですが、心が落ち着き、心豊になれた感じがします。










実は、11月の香港出張中に今年一番の大風邪を引いてしまい、一瞬インフルエンザかと思いひやっとしましたが、病院に行ったら検査もしないのに、問診だけで「風邪です」ときっぱり言い切っていた日本語カタコトのお医者さん。まあ、否定するだけの知識のないも無いし、ついてないな〜と思いながら、とりあえず保険フルカバーで薬をしこたまいただいて、打合せに行っては部屋で寝て、という日々を繰り返していたので、完全に調子を取り戻すまで約1週間半かかたりして、上海出張前までは、数日の間にギャラリーのリサーチ&アポイントをマッハでやりのけた為、パソコンでメールを高速で打ちまくったせいで、手が腱鞘炎寸前になりました。

しかし、本当の「疫」は上海でその本領を発揮したのです。

上海2日目、最初の打合せが担当者の体調不良でキャンセル、雨が降っていたラッシュアワー時にタクシーが見つからず、道に迷い、重い荷物を背負って1時間のウォーキング、お世話になった知り合いとの夕食に1時間も遅刻し、さらに急いでいたためにお財布を無くし、次の日には携帯が壊れ。

一体いつまで続くのかと思い、近くのご利益がある事で有名なお寺にかけこみお祓いをする始末。ちなみに私はクリスチャンですが。



その成果かよくわかりませんが、ギャラリーへのプレゼンではすこぶる反応が良く、思ってた以上の成果があり、今後の展覧会のチャンスも既にいただきました。

上海に住み、アート関係の仕事をする事を夢見ていた3年前。住まなくてもアートを通して上海との繋がり、広がりを感じられ、とても光栄に思う次第です。

2009年11月19日木曜日

やってはいけないこと



やってしまいました。

一番恐れていたこと。

それは、出張中に風邪を引くこと。

しかも、一番大事な打合せが入っている日にピークを迎えること。

私の一番の営業先である香港の滞在を、滞在日数分有効に使えなかったこと。

安いホテルにしてしまった為に、近所の騒音で寝れず、
さらに、インターネットにアクセスできなかった為に仕事が滞ってしまったこと。

今回の出張は、中4日間の短い出張だったけど、
一番やってはいけない事の連続。
出張先で病院に行くなんて、ほんとうに時間の無駄。
でも、振り返ると過去10年間、出張中に何回か行ったな〜。
上海で歯医者へ、サンパウロで点滴を打ちに、、、


反省1 次回からは、そこそこのホテルに泊まる。

反省2 インフルエンザの予防接種は早めに済ます。

反省3 日々の健康管理!

反省4 万が一の為に、大事な打合せは出張の前半に組むべし!


といったところでしょうか。





2009年11月10日火曜日

酔鯨館とアーティスト石丸運人




今日は、アーティストの石丸雅通さんの、鎌倉の自宅兼アトリエに隣接する美術館「酔鯨館」と、そこを継いで活動している友達であり、アーティストの石丸運人さんを紹介してみたいと思います。





鎌倉駅から小町通りを通り抜け、牡蠣丼で腹ごしらえをしつつ、鶴岡八幡宮を左に見ながらひたすら通りを進むと、なんとも風情豊な報国寺に到着。鎌倉駅から酔鯨館まではバスでの行き方が一般的だが、鎌倉のお寺の中で一番お薦めだと連れが主張するので、地図を見たらなんと道中だという事もあり、寄ってみました。竹林で着物女性の団体に遭遇し、写真に色を添えてくれました。




報国寺を後にどんどん奥に進み、山肌が見えてくる頃、突如巨大な鯨が現れました。山の中の巨大な鯨。なんだか、ちょっとしたファンタジー空間へたどり着いた感じです。


しかし、驚いたのは館内。なんとも独特な世界に飲み込まれそう、まさに酔いそうな感覚。はと気づき、ディテールに気を配ってみると、そこは確かに鯨が守る海の中の世界だったのでした。海の怪物、戦士(?)、はたまたポセイドンだったか、、、滅亡したと噂されるかつての大陸が海に沈み、伝説が生まれ、またそれが、現代に融合しているような。そこにいるだけで何万年前から一気に現代までの感覚が生まれてくるような。そんな空間です。




石丸運人くんとは、私がニューヨークから帰国した10年前くらいからの知り合いで、当時私は大手の会社を渡り歩き、石丸くんはよく「友香ちゃんは、ニューヨークにいて、そのあと〜〜〜」といった具合に丁寧に友達によく私の事を紹介してくれたものです。

彼の作品は、お父様の作品とはもちろん違うのですが、知り合って10年目にして始めて酔鯨館を訪れたわけですが、なんとなく共通の感覚を、本人は気づいていない部分で、多分精神的な部分で影響を受けているんだろうな、と感じました。彼の作品は、もし私が海外へ持って行ったとしても恥ずかしくない、むしろ誇りに思える作品です。彼の作品の写真が一枚もないので紹介できないのがとても残念です。でも本人は、自分が有名になる事に無頓着で、ただただひたすら作品を作り続けるタイプの作家です。昔、石丸くんが言ってました。

「一つのやり方を生涯かけて貫き通す。こういう作家になりたい。」

彼は、自身の死をもって完成する作品を作り続けているのかもしれません。だから、生きている内にキャリアを積んで、価値を付けて、という、一般的なアーティストとしての道を進まないのであろうか。昔言ってた事だけど、その意志はきっと変わってないだろうから、回りが石丸くんに、友香ちゃんにマネージメントしてもらいなよって薦めるんだけど、私も石丸くんも、「う〜ん、まあ、そうだよね〜」って流してしまう呼吸が存在している事実があったりもします。

彫刻は単に彼の生き様を形にしているツールなだけで、彼自身の行き方がアートなんだな。そう思える作家に会えるのは、とてもめずらしい事なので、このアーティスト石丸運人と、お父様の意志を受け継いでの美術館での彼の活動を、今後も見続けようと思います。




2009年10月3日土曜日

シンガポールアートの夜明け?


香港インターナショナルアートフェアの次に話題を呼んでいる
シンガポールアートフェアが近づいています。



フェアに伴って、ギャラリーのオープニングやアートイベントが重なりまくって
とてもじゃないけどまわりきれません。


マイアミ程ではないけど、体力がもつか少々心配ではあります。

フライデーナイトだけど、土日もアポが入っているので、そこそこに切り上げて
部屋で仕事をする事に。

でも、既に2時を回っている事に気づき、どっと疲れを感じているところ。。

さて、明日から本格的なギャラリーのプレゼンが始まるので、気合いを入れないと。

2009年9月24日木曜日

タイとシンガポール

台湾の出張後のフォローアップもままならないまま、
タイとシンガポールに行ってきます。

タイは、断然コマーシャル系が強いので、
そっち方面におじゃまさせてもらってきます。

シンガポールは、コマーシャル系もアートも
両方いい感じなので、バランスよく行こうかと思ってます。

シンガポールアートフェア、今年は参加ギャラリーが
少なさそうなので、どうなんでしょうか。様子みてきます。
台湾ではオープニング招待状ゲットできなかったけど、
シンガポールではしっかりゲットするつもり。持つべきは友。

キュレーションの展示会のプレと、デザイナーのレップも始めたので、
そっち方面のプレゼンも舞い込んできて嬉しい悲鳴だけど、
出張中も企画書作りに費やす日々が大予想。
安宿だけど、プール付きのホテルにしてよかった。
企画は部屋ではできない人なんで。
は〜、てんぱってきた。

ということで、タイとシンガポールにいる方、よろしくお願いします。

2009年7月29日水曜日

SHIFTへ寄稿しました。

始めてパプリック向けに記事を寄稿しました。


自分が運営しているARIの紹介も兼ねさせてもらいました。

このwebマガジンはアートとデザインの日本最強最古(だと思います)の
webマガジンとして長いこと日本に君臨しているのですが、
拠点は以外にも札幌なんですね。

札幌はおそらくこのSHIFTの影響で、デザインやアートが強いという
見方をしている人が多いんではないかな。
実際、色々なイベントが開催されているのは、周知の通り(?)ですかね。



2009年6月18日木曜日

吉光健大展覧会のオープニングで香港、火炭芸術村に行きます。





6月28日に行われる、吉光健大 香港での初の個展「フラットダンス」のオープニングの為、また香港に行く事になりました。

本当に、住んだほうがいいかなあ、しばらく。

実は、今回はオープニングの立ち会いは無理しなくていいですよ、とは展覧会会場の火炭(Fotan)芸術村にあるBlue Lotus Galleryに言われていたのですが、上海に2年間くらいず〜っと預けてた作品が直接ギャラリーに送られるので、作品の状態もチェックしたいし、吉光くんは、インスタレーション、というかスペース作るのが非常にうまいので、彼の技術&才能でちっちゃなホワイトキューブを金魚鉢に変えちゃいましょう、という話になり、私、吉光くんと、応援でARI所属の谷口登茂子さんも一緒に行く事になりました。なんか、旅行気分っぽくなってきたので、楽しくなってきました。

6月25日〜7月2日まで香港滞在予定です。

ちなみに、上2つの写真は、火炭(Fotan)芸術村です。芸術村?ってくらい、何にもコマーシャライズされておらず、やや世界の市場から取り残された香港のコンテンポラリーアートと中国コンテンポラリーアートの違いを感じます。インダストリアルな風景ですよね。実際、工場地帯です。なんもありません。でも、ビルの中に入ると、アトリエがびっしり!下2つは私が訪れた時に開催していたBlue Lotus Galleryの展覧会の様子とエントランスです。オシャレなギャラリーと表のインダストリアルさのギャップがもの凄いですよね。こういうところ、私的にはすっごい好きなんですよね。北京の798より、上海のM50より全然面白い。探検できますよ。だから、海外のアートエリアは楽しいですよね。エレベーターとかめっちゃくちゃでかいんですよ。工場だから。





Blue Lotus Gallery : Entrance






2009年6月10日水曜日

太極拳代わり??

北京の最後の夜、ものすごいものを見てしまいました。

場所は、んんん〜、なんてったっけ?故宮の北に位置する有名な池、というか、湖の入り口付近なんですが、この日はから〜い湖南料理を私の最後の晩餐にってことでご招待を受けたのですが。到着したら、老若男女ユーロだかハウス系の4つ打ちリズムで、日本で2000年頃流行ったユーロ顔負けでみな勢揃いで同じ振り付けで踊っていました。しかも、おばちゃんとかも。

これ、北京の流行なの??



一緒に行ったギャラリーの人もびっくり。でも、アイハブノーアイディア、とのこと。

ダンスの横では、にやにやしたおっさん達がギャンブルやら習字やらやってるだけです。

なにがなんだかもう、、、おそるべし中○人ってことで。
おばちゃんとか、可愛かったけど。。



2009年6月1日月曜日

北京の意味

北京出張の目的は、上海の友達からの紹介で、日本で展覧会を希望しているイギリス人女性アーティストのHelenに会うことでした。

彼女は、数年前に北京に移住し、北京の古い街、胡同(ふーとん)に猫と一緒に住んでました。



一時、北京オリンピックの時に、この古い胡同を取り壊し、強制退去を強いられていた住民が報道されていましたが、胡同は部分的にではなくいたるところにあり、あの報道は一部の地域の話だったんだな、と認識しました。行かないとわからないもんですね。



北京には意外な再会も待ち受けていました。それは、私をこの現代アートの世界にひっぱりこんだ張本人であり、私が4年間憧れ続けている、中国の現代アートに革命を与えた重要人物であるインディペンデントキュレーターの顧振清(グ・ツェンチン)との再会でした。彼は、Visual Productionsという雑誌の編集長もしていましたが、この経済状況の中、一時見合わせる方針を打ち立てていた事は友人を通して知ってはいましたが、私が再会した顧振清はさらに精力的に世界を相手に、まさにキュレトリアルマシーンが如く飛び回ってました。

ARTiTを通して私は彼を知り、そして、色々な経過を経て知り合いになったわけですが(詳細自ブログ)、彼の経営する文化&芸術センターであり、ギャラリーでもある北京のLi Spaceのゲストルームになぜ私が招待された訳は未だ持って理解不能なわけです。北京は、アジアアートどころか、今や世界の現代アートの中心になりつつあり、上海出身の彼は上海のアートシーンに、それまで政治との癒着でしかなし得なかったアートに、半ば暴力的とも言える方法で経験的な展覧会を通して革命をおこし、その後中国初の現代美術館を上海に建て、その後北京を拠点に構え、北京のアートエリアである798草場地にそれぞれスペースを持つに至り、そして世界のビエンナーレや美術館のキュレーターを勤めながら、今度北京に設けられる美術館のディレクターも勤め、、、、一体彼はどれくらいの事を生きているうちに成し遂げるんでしょうか?そして、そんな彼に期待され、私に一体何ができるのでしょか?まったくもって摩訶不思議なのです。

北京は、行っても行かなくてもどっちでもいいかな〜なんて思ってたわけですが、実際、今後の私の方向性をかなり揺さぶる滞在となり、少々、いや、かなり困惑気味なわけです。

ちなみに、写真はLi Spaceのりっぱな展示作品です。14時間アーティストと今後のアートについて語り合い、ビデオとその痕跡を展示し、ディスカッションした内容を文字化して展示していました。今後、このディスカッションを中国の詩として歌のパフォーマンスを行う予定だとのこと。どこまで革新的なんでしょうか。驚きます。







2009年5月31日日曜日

上海09


上海の友達宅です。この家にずーっと泊まって、勝ってにオフィススペースを作って仕事してました。でも、インターネット環境が悪く、ちょくちょく友達カップルの寝室にある有線を使うためにベッドに座って、最後のほうはベッドが私のオフィスになっていました。






上海では、営業というより、香港の疲れを癒したり、以前からおつきあいのあった人たちに自分のやってる事を報告し、ちょっとした話をまとめにいったりしてたので、わりとのんきに過ごしていました。




友達がアートマネージメントオフィスを構えているオフィスに遊びにいったのですが、いつ政府に取り壊されるか分からないふる〜い集合オフィス兼住宅兼工場?みたいなところがアートスペースになっていました。



そして、たまには飲みに行ったりもしました。



この日は、友達の友達のアーティストのオープニングに行って、今、流行の1933という、昔のミートマーケットをリノベーションした建物の隣の建物のファクトリーというところに写真のオープニングに行き、お腹がすいたので香港系のレストランに食べに行き、4時くらいまでひっぱりまわされました。